氷見手延べうどんのルーツ
氷見に現在のような手延べ製法によるうどんが伝えられたのは江戸中期、宝暦元年(1751年)のことだと伝えられています。
当時、輪島には加賀藩の御用素麺として白髪素麺がありましたが、次第に衰退し、やがて絶えてしまいました。今では当地氷見と、氷見からさらに伝えられたという砺波市の大門素麺として残っているわけです。
ならば、輪島にはどのようにして伝えられたのか、これには2つの説が考えられているようです。
その第1は現在の形の素麺(当時は索麺といいました)は禅僧によって中国から伝えられ、各地の禅寺に広められたとするものです。
能登門前町には曹洞宗総本山総持寺があり、現在でもここの僧侶は四九日(修行僧侶が座禅を休む日で、四と九の付く日)にはうどんを食べる習慣があります。輪島のうどんは先ず総持寺に伝えられ、そこから広く民間に広まったという訳です。
第2は遣唐使によって伝えられたものが、後年、北前船で各地に広まったとする説。秋田の稲庭うどん、長崎県・五島列島の五島うどんなど、氷見と並ぶ手延べうどんの古くからの産地は、多くが日本海側に位置しています。これらは、又、北前船の寄港地にも近く、関連が考えられているのです。北前船の寄港地近くで、且つ良質の小麦の産地に産業としてのうどん、そうめん製造業が栄えたのではないかという訳です。
輪島地方には、製麺業こそ絶えたものの、能登麦屋節という民謡が伝えられています。これは石臼で小麦を挽く時の唄だといいます。富山県には、城端地区に越中麦屋節があります。製麺技法と共に民謡も又、伝えられたのでしょうか。